91%日記

日々頭の中で行っている会話の言語化です

少女を埋める(桜庭一樹著)を読んだ

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読んだ

実際にはこの短編集の1作目「少女を埋める」と2作目「キメラ」は文學界の2021年9月号と11月号を購入して読んだので、初めて読むのは3作目「夏の終わり」だけ

 

わたしはいつも正しくないし、評する立場にはなく、この小説からは片方の意見しか得られないので思ったことだけを書きます

もとより、桜庭一樹の大ファンなので公平な見方はもうできないだろうな、と思う

 

当時

 

わたしは桜庭一樹ツイッターをフォローしているので、告知情報として文學界2021年9月号のことは知っていた

でも、あまり文学誌を読む習慣がなかったのでまぁ単行本か文庫になったら読むかぁと考えていた

桜庭一樹はいつも少女を書いているなぁとも思ったかもしれない

 

事態が変わった、2021年8月25日の朝日新聞

桜庭一樹ツイッターで「事実と異なる部分がある、否定したい」という発信があり、びっくりした

桜庭一樹のツイートはいつも白い老犬と、おいしい食べ物と、映画や本の感想が大半で、もちろん新刊の告知や書評の宣伝もあったが、あまり強いことを言わない人だと思っていた

 

これは私の勝手な想像だが、自分の小説の批評に対してはいつも受け入れているように見えていた

評者の言っていることに対してあれこれ言うのは無粋としているような印象があり、いつも客観的な立場を忘れないように、自分を律して冷静に、「そのようにも読めるか」と納得するように努めている人だと思っていた

 

事実と異なる、という書き方に引っかかってよく調べたら、私小説(的)とか、自叙伝(的内容)である、と紹介があり、それでか?と

 

そこから数時間でいろいろと動いていたようだが、その間わたしはそこまで注目せずに過ごしていた

気が付いたときにはもう、桜庭一樹は強い言葉で評者を非難し、朝日新聞社への語気も強めていた

すっごいびっくりした

いつも老犬白い~!みたいなツイッターしてるのに、どうした!?ご乱心か!?と

 

確か、先に朝日新聞の書評を読んだ

恥ずかしい話、これまで書評にはまったく興味がなく、なんとなく評というからにはある一つの書籍のあらすじとか、解釈とか、どのように作品として優れているのかまたは優れていないのかを論ずるものだと思っていたので、多くの文学作品を切り取って一つのテーマの枠にはめて文章にするんだ、という初歩の驚きがあった

というか、最初のほうに「私は十代後半から介護をしていて~…」みたいな文章が書かれており二度見した(原文とは異なります)

 

書評って、書籍に対しての客観的な審査をする場所だと思っていたので…わたしはとても無知だった

(なお、当時の「少女を埋める」は定期刊行物の中の一記事という扱いになるため書籍ではありません、という注釈をつけようか迷ったのですが本筋と関係ないので割愛します)

 

桜庭一樹が言及していた部分を読んだ

 

実は、「星の王子さま」も「かか」も読んだことがなかった

「かか」はそのうち読もうと思っていたが、「星の王子さま」は20年位前に読もうとして、やめた

 

だからなんというか、「へーそんな話なんだー」と軽い気持ちで接していた

 

続いて、桜庭一樹のnoteで一部公開された「少女を埋める」を読んだ

冒頭から、あ、桜庭一樹の文章だ、と思った

 

わたしは「桜庭一樹読書日記」シリーズが大好きで、いわゆる文芸作品というより日常の記録なんだろうけど桜庭一樹という人が、こういう本を読んで映画を見て、たくさんご飯を食べて、小説を書いている、同じ時代に生きている人間なんだと感じるのが好きだった

なんなら聖地巡礼とかした

同シリーズは読書日記としても飯系ログとしてもかなり優秀です

 

「少女を埋める」はその時の文章に限りなく近く、でも確実に桜庭一樹は年齢を重ねているんだ、と気が付いた

 

そのあともう一度書評を読んだ

 

桜庭一樹の主張を読み、評者のEvernoteも読み、ツイッターで検索して不特定多数の思想を見た

その中に「noteで公開されていない後半が面白かった」という発言を見かけたのでAmazonで本誌を注文

 

届くまでしばらくかかったが、後半を読んでうわ~~!!!とどきどきした

読んでよかった

 

それからも論争は続いており、桜庭一樹ツイッターに疲弊が感じられたが、それでも負けない、と肩に力が入っているようで心配だった

 

いつか誰かが言っていた「夫婦喧嘩したときはどちらが正しいかではなく、相手を傷つけたことに対して謝る」がリフレインする

家庭の中にある、二人きりの唯一無二同士だからできることでもあるのだろうけど、間に大きいメディアがある限りはそうもいかないのかしら、と悲しく思った

 

いま

 

1年ほどたち、なんとなくまだ単行本は読んでいなかった

図書館に行ったときに見かけて借り、最後まで読んだ

 

論争当時、たくさんの人々のそれぞれの思想に触れ、何が正しいのか正しさとは何なのか、考えるのに疲れていたから単行本が出てすぐ読まなかったんだと思い出した

これを期にもう一度たくさんの人々の思想に触れたら、はやり疲れた

 

単行本を入手するまで、何度か文學界は読み直した

今年5月に祖母が亡くなったとき、気を引き締めて読んで人との別れについて考えた

桜庭一樹読書日記」シリーズも読み直した

その中で両親に関する記述を見つけると胸が締め付けられた

「少女を埋める」の中に登場する小説「キリンヤガ」も読んだ。これは本当に面白かった!

SF小説と翻訳小説へのちょっとした苦手意識が払拭された

 

桜庭一樹ツイッターではまた、ちょっと気の抜けた白い老犬が登場するようになり、長生きしてほしいな、と思った

 

私小説といえど、実際何があったのかはわからない

書かれているのはすべて主人公である冬子の視野であり、搭乗する彼女の両親や祖母との間に本当にあったことなんて、本来他人である私が知るべきではないのだと思う

 

いま思い返して、桜庭一樹の主張であった「あらすじと解釈の違い」については衝撃だった

わたしが高校生だったころ、まったく現代文が解けなかった 文系だったのに

文章自体は読めるのに、自分が思っていた方向と違う論になるのが気に入らなくて、脳内でどうにかこうにか補完して捻じ曲げて、結論を変えていた

国語の先生に「自分の望む結論にならなくてもあきらめるな」と言われたのは、これだ!!やっとわかった

きっと今のわたしはあらすじ(文章内に書かれていること)と解釈(文章内の行間を自分で補完して得たこと)の違いがわかる

同時に、未熟なわたしの読み方と新聞の誌上で書評を行う人間が同じところでつまずくわけがないのでは?と混乱する

 

10年前は、とにかくセンター試験だけは乗り越えなければ、と小手先のテクニックをよく使ったのだが、その一つに書かれていないことを示す選択肢からジャッジする、というのがあった

もし「少女を埋める」が題材になった問題の選択肢に「主人公の母親は闘病中の父親を虐待した」という文言があればそれは正しくない、と思うが、一応△印をつけて保留とし、ほかに合致するものがなければ繰り上げ合格としてマークしていたかもしれない

どちらが正しいのかわからない。正しいことがわからない自分の正しくなさを感じる

 

あの論争があってから、文章を読むときは「事実と解釈の違い」を強烈に意識するようになった

そうでないと傷つける人が出てくることを実感したからかもしれない

正しいことばかりがいいことではないが、人を傷つけてはいけないという倫理観は大事にしたい

 

いまならセンター試験で満点取れるかもしれない

もうセンター試験、ないけど

 

感想

 

ここからはシンプルに読んだ感想です

また、「キメラ」と「夏の終わり」については言及せず、「少女を埋める」についてのみ書きます

 

 

 

私もまた、閉鎖的な地方の田舎で育った

特に男尊女卑の傾向が強く、「長男だから」と何事も優遇される兄、長女である私

下にぽこぽこ妹、妹、弟が生まれ、そのころから家庭の中の労働力として期待されていたように思うが、空気の読めない自分勝手なガキだったのでよく妹を置き去りにして遊びに行っていた

彼女たちのことはたくさん泣かせたと思う

そして、労働力として期待されない兄を羨ましく思い、私自身も泣いた

 

主人公である冬子は一人娘だ

私はずっと”一人娘”へのあこがれがある

いつも自分より小さな存在があることで、親から関心を持たれていないと感じれ致し、ある意味事実だと思う

テレビのチャンネル争いも外食の店を決める時も、私には権利がなく、下の子たちが選ぶものを受け入れていた

親戚の家に行くときはたくさんの種類のドーナツが用意されていたが、それも下の子から選び、余ったものの中から自分の好みを見つけ出していた

 

だから、常に両親の愛をダイレクトに感じられているであろう一人娘になってみたかった

 

大人になり、自分のテレビを持ち、自分のお金で好きなものを食べられるようになってようやく一人娘への呪縛が解けた

きょうだいが多いのは楽しい

でも、子ども時代に下の子たちをたくさん泣かせたことへの罪悪感があり、小さなことでも頼られると罪滅ぼしができたように嬉しいが、妹たちは「お姉ちゃんはいつも優しいよね」と言うので、また罪悪感が生まれる

 

主人公冬子と母親の間に、母親と祖母の間に、そして母親と父親の間にもそれぞれ負い目があり、罪悪感があり、被害者意識があり、加害者意識があるのだろうな、と自分のことのように思う

家族という密で閉ざした関係の中で、それらが混ざり合う表現が胸に迫った

 

また、父親のお別れ会の中で冬子自身が一族の者たちに囲まれて自他の境界が曖昧になったと感じるシーンでは、こんな変なことを考えるのは自分だけではないのだな、と思った

正確には少し前までそんな感覚を持つことが多々あったが、最近はない

代わりに、東京で一人暮らしをしている自分はまぎれもなく私の人生を歩む唯一なのに、実家に帰って法事に出たりするととたんに役割を課されたようで心地悪くなった

長女として、娘として、姉として、一族の者としての役割が私の人生を邪魔するような気がする。自他の境界が曖昧になるのではなく、他に囲まれて自が身動きできず、凍ってしまう

私にとっての共同体の圧力がそこにはある

 

冬子は先述の小説「キリンヤガ」のストーリーを持ち出して「私は出ていかないし、従わない」と心に決めるが、その様子は私にはまぶしく映る

私は従うことも反発することもなく、ただ黙って出てきた

女の子としてりこうに育ってしまったため、学問を修め、自立しますと耳障りのいいことを言って逃げてきた

多分、もう帰らない

 

私はまだ、ずいぶん空気の読めない自分勝手なガキだな